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GAERNEのはじまり
しっかりとくわえた釘をハンマーで靴型に打ち込む作業はいまだにお手のものだし、前歯には釘で削れた跡がある。
靴作りの伝統が息づくモンテベルーナ
イタリア、ベネチアの北方50キロの丘陵地帯は、知る人ぞ知る世界的な靴の生産地帯である。モンテベルーナ市を中心とする一帯には、靴の素材メーカーから最終製品のメーカーまで世界有数のブランドが並び、大半は家族経営だ。
もともとはベネチア共和国の一都市だったモンテベルーナには靴作りの伝統があった。13世紀以降、商業、海運都市だったベネチアの背後で、製造業が花開いた。ところが18世紀になり、ナポレオンとオーストリアの侵入を経て、ベネチアの国際競争力は衰えた。20世紀になると毎週市が立ち、モンテベルーナの靴職人たちは腕を競った。第一次世界大戦が終わると、ドロミテ山中の塹壕で戦ったイタリア人たちがハイカーとして山に戻ってきた。モンテベルーナは登山靴の製造でにぎわった。1930年代になるとスキーも盛んになり、登山靴を工夫することでスキーブーツを作り、いわば多角化経営の先駆けのようなことが起こった。技術的にも革新が起こり、60年代にはプラスチックがスポーツシューズに応用されるようになった。スキーブーツがプラスチックだけで作られた。その後、シューズメーカーの多角化が進み、サッカー、テニス、オートバイ、自転車、ダンス、クロスカントリースキー、アイススケートなどの専用シューズの生産を手掛けた。
13歳で丁稚奉公に出たエルネスト
エルネスト・ガゾーラは子どものころ父親が靴をよく修繕に出していたのを覚えている。当時は新しい靴を買うのはとんでもなく贅沢なことだった。13歳になった時、父親が行きつけの修繕屋に彼を丁稚奉公に出した。17歳でマゼールの軍靴工場に転職した。その後、徴兵を終えてからアゾロの別の靴工場に勤めた。60年代初頭までは職人としての修業を積んだ。彼が得意としたのは靴のアッパー部分とソール部分を縫い合わせることだった。靴造りにおいて一番大切で、難しい部分なのだ。しっかりとくわえた釘をハンマーで靴型に打ち込む作業はいまだにお手のものだし、前歯には釘で削れた跡がある。当時は力を込めて糸を引くので両手のタコは丘のように盛り上がっていた。
独立したエルネスト
1957年、靴のアッパー部分の縫製を得意としていたヴィットリアと結婚した。彼女は地元の工場に勤めていた。二人は結婚プレゼントの代わりに、金を出し合ってアッパーの縫製機械を買った。そうすれば、彼女は商売と子育てに専念できる。1962年、彼は自分が通っていて廃校となった小学校の教室を工場としてガエルネ社を設立した。工場で10時間働いて、家に帰ってから5時間働いた。最初の注文は仕事用の靴が3足だった。1964年に南チロルの森で働く木こりやアブルッツォの羊飼いたちのための山用ブーツを作り始めた。1970年代中旬にはオートバイブーツを作り始めた。1985年にマウンテンバイク用シューズの生産を始めた。チネリがランピチーノでヨーロッパにマウンテンバイク・ブームを巻き起こした年である。最初はハイキングブーツからの応用だった。やがて、当然のことながらロードレース用のシューズを開発するにいたった。オートバイブーツの経験がすぐに役立った。スポーツ用シューズにかかわる技術から素材に関する知識まで、すべてはガエルネ社にあった。 |
ガエルネ工場前でのカレラチーム。キャプーチと握手するエルネスト・ガゾーラ。(1990年) |
進化を続けるガエルネ
1980年代中旬には、自転車ペダルにも大きな変革がもたらされた。クリップレス・ペダルの登場である。その変化は、サイクリングシューズにも大きな影響を与えた。より安全で、ペダルの上で足が安定するようになったのだが、負荷がすべてシューズにかかってくる。アッパー部分の素材と構造をはじめとして大変革が起きた。当初はアッパーにカンガルー革を使った。やがてロリカ、そしてマイクロファイバーへと変化した。シーン・ケリー、ダヴィデ・カッサーニなどのトップ選手が使用した。やがてチーム・カレラのクラウディオ・キャプーチ、マルコ・パンターニの登場で、ガエルネの評判は世界に知られた。技術的な改良は、その他の多くのチャンピオンたちのフィードバックに応えて最新作G.クロノに結実した。足の特定の箇所に圧力が集中することなく完璧な、包み込むようなフィットを実現したのだ。史上、もっとも自然に足をとらえるサイクリングシューズの完成である。エルネストが作ったシューズメーカーは、彼の精神を受けついだ子どもたちによってさらに進化を遂げていく。 |
シーン・ケリー(1988年) |